暗雲を行かない

ビタミンDを求めて

16. トイ・ストーリー4感想

この記事はネタバレを含みます。

9年ぶりの最新作

初代トイ・ストーリーは名作だった。子供のときに何度も観た。

2も面白かった。あんまり覚えてないけど。ジェシーが初出のやつな。

3は名作中の名作。トイ・ストーリーシリーズの完璧な終わり方をしたもので、次回作はもう作られないものだと勝手に思っていた。

3が2010年で、今作の4が2019年である。うっそまじ?9年?3観たの大学生のときで劇場で泣きそうになって感動したから帰りの中野ブロードウェイでウッディのリボルテックを買ったのが9年前?はーまじか。はるか昔のことじゃん。

トイ・ストーリー直撃世代にとっては、3でアンディとウッディのお別れに大いに感情移入し、シリーズの「完璧な終わり方」だと評した。そして今作である。完璧な終わり方をした作品の続編を作って成功した例って今まであるのか?正気か?まあFF10-2の話は置いといて、結論を言うと今作もやはり名作であった。ピクサーを信じろ。

ゲームオーバーになっても人生は続くよ

前作までが『選ばれてきた』玩具たちの物語だとすれば、今作は『選ばれなかった』玩具の物語であった。

ウッディはアンディのお気に入りとして生きて、次はボニーの家に引き取られた。ボニーの家ではお気に入りに選ばれなかったわけだが、それでも玩具の役割は「子供たちのため」と信じ、ボニーのサポートに尽力する。新キャラ・フォーキーは対称的で、ボニーのお気に入りになるも、自分はゴミから生まれたからゴミに帰ろうと死にたがる。選ばれたフォーキーは自覚せず、選ばれなかったウッディがフォーキーをサポートする構造は、まあ物悲しい。そんで今作の悪役ギャビーギャビーである。彼女は不良品でウッディと同様のボイス機能が生まれつき壊れており、誰の子供に選ばれることなくアンティークショップで過ごしている。悪役ではあるが、そういう訳ありなわけで同情する余地がある。ちなみに前作3の悪役ロッツォは、もともとはデイジーという子供のお気に入りだったが、外で遊んでるときにロッツォたちを忘れて帰ってしまい、ロッツォがなんとか家に帰ったらすでに変わりの玩具があったという境遇だ。つまり『選ばれた』経験があるのに対し、今作のギャビーギャビーは『選ばれたことが一度もない』という明確な違いがある。

選ばれない玩具はどうなるか?残念!あなたは誰にも選ばれることはなかった--GAME OVER--ではなく、その後も描かれることはない人生は続くのである。

前作までの話は、言ってみれば選ばれてきたやつらの話であって、今作では二度目に選ばれなかったり、選ばれたことすらないやつはどうすりゃいいのさという話である。このへん、ツイッターはてブでよく観測する人生の闇属性を持つものの悲哀と重ねてしまうのであるが、そういうメッセージ性がありそうではある。ギャビーギャビーのお茶会の練習は、健気というより狂気じみて描かれているのだが、馬鹿にすることはできない。切実な問題なのである。

あなたはまだ本当の「トイ・ストーリー」を知らない。

前作は完璧な終わり方だった。玩具好きのアンディと過ごしたウッディたちが、玩具好きのボニーに引き継がれ第二の人生を歩むという理想的すぎる構造が完璧であったわけだ。だが悲しいかな玩具の運命は決まっていて、いずれ飽きられる。飽きられたあとの選択肢は、屋根裏部屋で余生を過ごすか、保育園に引き取られるか、また別の誰かに引き取られるか。

今作では別の選択肢が新たに提示された。アンティークショップで誰かに買われるのを待つか、移動遊園地の景品になって誰かの景品になるのを待つか。そして全く別の選択肢が、子供に選ばれるという選択肢ではなく、子供部屋の外の世界で生きるという選択肢だ。玩具が子供のためではなく、自分自身のために生きるという生き方は、まさしく本当の『トイ』・ストーリーだろう。知らんけど。キャッチコピーの本当のトイ・ストーリーってなんだよって考えた結論がこれ。俺たちが今まで観てきたトイ・ストーリートイ・ストーリーじゃなかった…? いや、違うね。前作までと今作とを明確に分ける新しい価値観によって作られたというメッセージなのだ。

その新しい価値観で生きている玩具が、前作でなんの前触れなく消えていたボーである。ボーはたくましくなっていて、以前のようなお姫様スカートではなくパンツルックスタイルで活躍するあたり、いろいろな時代の世相を反映している感がある。選ばれなかった奴らの選択肢は大きく2つ。選ばれるまで待つか、自由に生きるかだ。後者は戦わなければ生き残れないのだ。

玩具にとっての幸せはなにか?子供に選ばれ、子供たちと一緒に過ごすことだ。その価値観を前提とした前作までがあまりに理想的すぎた。その理想に生きれなかったやつはどうすればいいのさ。現実でもよくある話である。その理想に従う必要はない。別の生き方はあるよ。と示してくれている。トイ・ストーリー直撃世代の30代で、現実と理想のギャップでせめぎ合うのも疲れてくたびれているおっさんにちゃんと刺さるようにできてるあたり、やはりトイ・ストーリーは俺達と歩んでくれる作品なんだなと思いました(30代並みの感想)。

失わずには得られない

ところでウッディのボイス機能をギャビーギャビーに与える描写は、かなり説明的だと感じた。フォーキーの代わりにボイス機能を与えると約束して暗転、次のウッディのシーンでは手術は終わり、ウッディのボイス機能が失われた代わりにギャビーギャビーのボイス機能は治っている。いや、なんで?どういう仕組み?このへん深く突っ込んでも「細かいことはいいんだよ」と言われそうではある。

ウッディは選ばれてきた者である。ギャビーギャビーは選ばれなかった者である。与えよ、さすれば得られんの精神をクリエイター側が示したかったのかもしれない。「もう必要ないなら、必要な者に分け与える」という行為は、もう玩具を必要でなくなったアンディがボニーにしてあげたことと同じ構図である。ウッディもギャビーギャビーに、アンディがそうしたようにしてあげたのだ。こういうことを説明したかったのかもしれない。

こうしてアンディは古くなり、変わっていく。靴の裏は「Bonnie」と書き換えられ、ボイス機能も失われた。アンディだけでない。ボーも腕が折れた。玩具にも寿命があるのかもしれないということを感じさせ、終わりに近づいていくことを意識してしまう。

無限の荒野へ

まあともかく、いつまでも選ばれた側でいることはできない。シリーズを通してもそのことは伺えるし、人との関係も変わるし時代も変わる。そのたびに生き方を変えていく必要があるかもしれないし、幸せのモデルも変わるので、うまいこと現実と折り合いをつけて、新しい生き方を模索する必要がある。

ウッディの「子供のために」の考えは、もしかすると現代的価値観に沿うと古臭くなってしまったのかもしれない。少なくとも、もはやウッディ自身のためにはならない古い価値観となった。その価値観を変えることができ、全く新しい生き方を見つけることができたのだから、これをハッピーエンドと言わずなんと言おう。

3では「あばよ相棒」と言ってアンディと別れた。今作では「無限の彼方に」「さあいくぞ」。バズとアンディの道は別れたが、子供部屋の外の世界は無限に広がっていて、無限の可能性が選択肢にあるとお互いが気づけているのなら。バズたちはボニーの元に残ったが、その選択肢に気づいているのなら、いつでも無限の彼方にいける準備はできるだろう。保安官からカウボーイへ。彼方というより荒野かな。

ラストの「なんで生きてるの?」「さあ?」っていうのも、これからは玩具たちは「子どもたちと遊ぶのが幸せ」という固定観念に囚われず、自分で考えて生きていかなければならないという、自由意志を獲得してしまった者の悲しい使命にようやく気づいてしまったのかもしれない。そう考えてもやっぱり荒野だな。